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2011年1月29日

いよいよ日本に帰国

28日に、ピーターの見送りでアムステルダムのスキポール空港から、エミレーツEK148便(Boeing 777)に搭乗しました。

ドバイ経由の成田ゆき。いよいよ旅も終わりかぁ。(ちなみにピーターはその足でフランスに行ってクルマの買い付けをするらしい。元気なおじさんだ。)

アムステルダム~ドバイ、ドバイ~成田の2レグともエミレイツなので、預け荷物を成田まで運んでくれるというのも嬉しいです。
ドバイがいくらゴージャスな国際空港とはいえ、トランジット中に荷物のことでヤキモキするのはいやですからね~。

さすがエミレーツ!! な、ゴージャスな機体にワクワクしつつ、現地時間の夜11時ごろドバイ空港に到着。真冬のオランダから、いきなり中近東に来たらとても温かく感じました。夜だったけど、外気温は21度です。

ドバイ空港に来るのはこれで二度目。何から何まで産油リッチなドバイ空港の贅沢を十分に堪能しつつ、真夜中のトランジットを楽しんだのでした。

そして早朝2:40にエミレーツEK318便でいよいよ成田へ!東京便は2010年に就航したばかりなので、今後もお世話になるかもしれません。

機内では英語バージョンの「アバター」を見たりして過ごしました。幸い空席があって、窓際の3席が空いてたので、2席を独り占めしてぐっすり眠れてよかった。

7ヶ月の旅が終わるせいかなんか燃え尽きてて、いつもだったらバシバシ撮りまくる上空写真も、今回はゼロでした。

29日の日本時間午後4時過ぎに、無事に成田空港に到着。
両親がクルマで迎えに来てくれていました。遠いのにありがとう~。

久々の実家に戻り、7ヶ月ぶりの湯船につかって。。。

なんか、今までの事は夢だったのかなぁ、と思ったり。

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2011年1月19日

帰国の航空券を予約

ブルーメンダール(Bloemendaal)に来た直後、ピーターが少し体調を崩して安静にしてました。
その間、こちらはいろいろ思い出しながら1ヶ月以上遅れていたブログ原稿を進めたりしてPC漬けです。
真冬のオランダは結構寒いので、つい出不精に。。。

成田空港への安い航空券を検索していたら、アムステルダム発で3つの候補があがってきました。

・エジプト航空 - Egypt Air (カイロ経由) 片道 413 Euro
・アエロフロート - Aeroflot (モスクワ経由) 片道 496 Euro
・エミレーツ - Emirates (ドバイ経由) 片道 539 Euro

最安値優先だったら間違いなくエジプト航空かアエロフロートですが、何となく不便そうなカイロやモスクワの空港でトランジットするよりは、バブリーで豪華絢爛なドバイ空港ゴージャスに乗り継ぎしたい!。。。という気分だったので、3番目のエミレイツを選択。

ただ、オランダの航空券比較サイトで予約しようとしたら、手数料やら何やらで539 Euro → 628 Euro に膨れ上がることが判明しショック。
「だったら直接エミレイツから買えばいいじゃないか」
というピーターの一言で、エミレイツのサイトで再検索。なんとここで直接予約すれば諸費用込みで542 Euro (約6.1万円)に収まる事が判明。
スゴイ!100ユーロ近く節約できました!有り難うピーター!

というわけで無事に日本への帰国便を予約。1月28日アムステルダム発で、UAEのドバイを経由し、翌29日の17:20に成田空港に到着予定。航空券が予約できたことで、ついにこの旅行を終える道筋が見えてきました。。。

※追記:実はこの時エミレイツを予約しておいて大正解でした!実はちょうど1月28ごろ、カイロでは大規模なデモ(エジプト革命)による空港閉鎖があり、モスクワの空港では反政府の自爆テロがあってとんでもない騒ぎになったからです。もしお金をケチってエジプト航空やアエロフロート航空を選んでいたら、すぐには帰国できなかったかも。。。
旅先での直感には素直に従ったほうが良いですね。



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2011年1月16日

ブルーメンダールの家

やがて、葬儀を終えたピーターが例のオンボロメルセデスで迎えに来てくれました。

「やあお待たせ。お陰さまで素晴らしい葬儀で父を見送る事ができた。悔いはないよ。さあ、ブルーメンダールに行こう」

そう言ってピーターはフローニゲンを出発。なんと、これまたなつかしの巨大堤防アフスライトダイクを通っての道のりです。ここは前回ワゴンRでハンスと一緒に通ったことがあります。2度も通れるなんてビックリ!

さてブルーメンダール(Bloemendaal)にはピーターの家があるそうですが、ここはアムステルダムにほど近い美しい村で、なんと結構な高級住宅地らしい。

もちろんピーターが住んでいるのは公営住宅のような質素なアパートですが、着いてビックリ!これまたカッコイイ造りなんです!壁にはアフリカのタペストリーがどーんと飾ってあり、何やら存在感の木彫り土産が飾ってあります。床はコンクリート打ちっぱなしに白木の板を敷き詰めただけ。入った瞬間にギャラリーか何かかと思いました。

「ええぇ。。。ピーター、このインテリア全部自分でやったの?」
「ああ、そうだよ。お金が無かったもんで、床がちょっと歩きにくいかも知れん。すまんね」

って、何言ってるの!超イカしてるって、この床!
ピーターの話を聞いてると絶対に私よりビンボーなんですけど、この家のセンスのよさを見る限り、絶対そんな貧乏には見えない所がすごい。しかも、64歳ですよ?日本でこんな風にインテリアをアレンジできるシルバーが何人いるでしょう?

思い返せば、トビアスの船も、ハンスの家も、パトリックの家もみんなインテリア素敵でした。
みんな男性ひとり暮らしですけど、なんか小奇麗でお洒落なんですよね。

やっぱりジャパニーズはヨーロッパ人の美的センスには敵わないのだろうか。。。orz

この素敵なアパートで、日本への帰国までお世話になることになりました。有り難うピーター!!
無線LANも使えるし、頑張って溜まったブログ原稿を更新するぞー!!

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2011年1月14日

フローニゲンでハンスと再会

旅の神様は実に不思議な取り計らいをしてくれるというか。。。パリを出発したピーターの最初の目的地はオランダ北部のフローニゲンでした。そこが実家なのだそうです。

ピーターは亡くなったお父様の家で葬儀に間に合うよう、弾丸のようなスピードでベルギーとオランダを縦断します。すげえおっさんだ。

で、ピーターが家族の家で葬儀の準備に関わる間、私はなつかしいハンスと一緒に過ごすことになりました。「こんな形で再会できるなんて夢みたいだね!」とお互いに再会を喜ぶ我々でした。

何と言っても、この旅にとってハンスは本当に欠かせない存在だったと思います。SIMカードを譲って貰ったお陰でヨーロッパやアフリカで携帯が使えたこと、Open Street Mapをガーミンに移植して貰ったお陰でアフリカで迷わなかったこと、ほかにも感謝すべき事は山のようにありました。彼には心からお礼を言いたかった。

ハンスの家に滞在中、駅近くの美術館のロシア美術展に連れて行ってくれたり、ロシアグッズを扱う専門店で買い物したり、ロシア映画を観たり、とにかく互いにロシアファンという事もあってロシア尽くしの日々でした。



最近までのアフリカ体験が強烈すぎて、ロシアの記憶が薄れかけてきていた頃だったのですが、ハンスのお陰で旅の原点となったロシアの素晴らしい想い出が蘇ってきました。もう忘れてしまったと思っていたロシア語の単語も、不思議と記憶に蘇ってきます。

アフリカからヨーロッパに戻り、再びロシアに出会う。。。

まるで、今回の旅行で学んだ事をおさらいしているような、不思議な気分。まるで出来すぎたシナリオみたいです。旅の神様は、何かを教えようとしてくれていたのかも知れません。

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2011年1月11日

再びタナボタでパリ観光

■1/10 モプティ~パリ [旅客機]
イッサに見送られつつ、セヴァレ(Sévaré)にあるモプティ空港からPoint Afrique(ポワンアフリーク)の飛行機に搭乗。私もピーターもかなり荷物を切り詰めたはずなんですが、それでも2人でやっとの大荷物。

※モプティ~パリの航空券は全てイッサが手配してくれたものですが、価格は実にリーズナブルな395Euro(約4.5万円)でした!

あまりアフリカを去るという実感が湧かなかったけど、ジェット機が滑走路に舞い降りてきた時はさすがに胸が躍りました。しかもパリへの航路は、今や治安の関係で訪れる事の出来なくなってしまったアルジェリア上空だったのです。窓の下には無限に続く砂丘群の神秘的な模様が描かれていて感動でした。最後の最後まで西アフリカの素晴らしい風景が見られて良かった!

パリのシャルル・ド・ゴール空港に到着した時はなんか夢みたいな気分でした。しかし、ここからが地獄。。。パンパンのバックパックとキャンプ用品や冬の装備などが詰まったバッグを抱えながら、RERとメトロを乗り継いでモンパルナス(Montparnasse)へ。ピーターが馴染みにしているという安宿(Le Nouvel Hotel Du Theatre)に到着したした頃にはヨレヨレ。。。

■1/11 再びパリ観光、冬のエッフェル塔
実はクルマ商人のピーターは、フランスで中古車の買い付けする為にわざわざパリに来たわけですが、商談は翌日だったので空いた1日をパリ観光にあてることにしました。私としては偶然大好きなフランスに再び戻ってくれた訳ですからタナボタです。ヤッター!

フランス通のピーターは「美術館(La Musée Du Quai Branly)でアフリカ文化展を見よう」と渋い事を言うので、一緒に行ってきました。つい先週あたり見てきたドゴン族の仮面や木彫りのすごい奴がたくさん展示してあって、なんだかまた西アフリカに戻ったような不思議な気分。

しかし、おのぼりさんな私としては、やっぱりエッフェル塔とかノートルダム寺院とかに行ってみたいわけです。セーヌ川沿いを延々と歩かせてしまい、ピーターちょっとお疲れモード。だよね、この人きっと見飽きてるよね。(^_^;)

パリはすっかり冬の装いで、木々の葉は落ちなんとなく寒々とした雰囲気でした。それでも再びエッフェル塔の前に自分が立っているというのが信じられなくて、一体どういう巡りあわせだろうと一人で感激してました。やっぱスゴイー。

■1/12 中古車の買い付け
いよいよ商談の日、パリ郊外のシャルトル(Chartres)まで電車でGO!ピーターはここで懇意にしているフランス人カーディーラーのジミーから中古の激安メルセデスをお買い上げ。これまたどんだけボロいって、ボンネットあけて自力で何か(点火用ヒーター?)を結線しないとエンジンがかからないという代物。

「メルセデスは長持ちするから、オンボロでも値がつくんだ」とゴキゲンなピーターですが、私はこの光景を見て、なぜ彼がワゴンRの程度が非常に良いと絶賛していたかが何となく分かった気がしました。。。「ナオコ心配ない!君のワゴンRのお陰で儲けさせて貰ったから、帰国までの交通費は全部私が持つよ!」

あ、ありがとうピーター。。。で、乗ってみて分かったんですが、このメルセデス全く暖房が効かないし。あ、あのー、今って真冬のヨーロッパだよね?(゚д゚lll)


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2011年1月9日

モプティ三輪車クラブ

「モプティには私が去年から気にかけているハンディキャップの男がいるんだ。足が全く不自由なのに、路上で雑貨屋を営み、自立した生活をしている立派な奴だ。彼に会いにいこう」

ピーターが推薦するその彼はマイガという名前で、私とほとんど同じ年齢でした。10歳のときひどい熱病にかかって足が不自由になり、以来ずっと三輪車に乗って生活しているそうです。
「やあ、調子はどうだい?」「ピーターさん、お久しぶりです。ご覧の通り元気でやっていますよ。2人とも、お茶をどうぞ」

マリの三輪車というのは既存の自転車パーツと車椅子を合体させたような物で、ペダルにあたる部分がハンドルになっており、手漕ぎでぐるぐる回すとチェーンの力で前進する仕組みです。マリでは決して珍しいものではありません。

しかし、マイガの三輪車はひどく粗末な造りで、最初からステムベアリングが入ってなかったらしい。そのため長年の使用によってフロント周りがぐらつくようになり、しょっちゅうチェーンが外れる有様でした。メカニックでもあるピーターは、この有様を見るに堪えかねたのか。。。

「彼に新しい三輪車を買ってやろう」
。。。。出た! 前回ボールで済んだと思ったら、今度は三輪車!? どこにそんな金が!? Σ(゚皿゚)

「心配ない、ワゴンRの利益で十分賄う事ができるさ。つまり、君のお陰だ。共同プロジェクトといこう」

うおー、既に連名になってるし!
まあいいや、面白いからピーターが何やるのか見物しとこう。

さっそくイッサにかけあって、腕のいい溶接工を紹介して貰ったピーターは、「ベアリング含め全て新品パーツで新しい三輪車を作って欲しい」と発注。そんなスグに出来るわけがないと思っていましたが、彼らは物凄く仕事が速く、翌日の夕方にはすでに骨格が出来ててビックリ。見習いの少年が、鮮やかなブルーのペンキを塗っている所でした。はやっ!

そして、ノンボリ訪問(ドゴン)からモプティに戻ってみると、三輪車は立派に完成していました。すごい!

しかしピーターは見た目の良さに騙されないタイプ。フロント周りの出来具合を厳密にチェックし、「ステムの調整が全然なってないじゃないか!こんなデタラメに金を払うわけにはいかん!明日までに直してくれ」と辛口の評価。
へえー、そういうモンなんだ。。。

「まったく、溶接は上出来だったが肝心のメカが分かっとらん。」とブツブツ言うピーター。いやー、ヨーロッパの基準で判断するのは厳しすぎるんじゃ?「おいおい、アフリカだから適当で良いというのかね?あんな品質ではスグに壊れて元の木阿弥だ。貧しいマイガに修理する金はないんだよ。今度こそ長持ちしてくれなきゃ困るんだ」

。。。というわけで、我々がモプティを発つ前日にやっと完成したのが、この逸品!

ステム周りの不具合は修正され、左側にワイヤー式のブレーキまで付いているというデラックス版です。もちろんボディは設計からしてオリジナルだし、ホイール等の部品も全て新品パーツで組みあがっています。
すごーい!ホントに出来ちゃった!

さて、乗り心地は。。。「うーん、ハンドルが重いぞ!」どれどれ。。。あっ、ホントだ重~い。
しかし、地元の溶接工のみんなはここだけはガンとして譲らず、「重いなんて事ありません。僕らには軽いですよ。特にハンディキャップの人は腕力ありますから問題ないです」と、スイスイ乗って回って見せたのでした。ふーむ、腕力の問題か。。。

仕上がりにいまひとつ納得がいかない様子のピーターでしたが、「分かった。ここからマイガの所までテスト走行する」 と三輪車を漕ぎ出しました。

ははは、モプティの街でヨーロッパ人が三輪車に乗ってるなんて面白~い!街の人がみんなピーターを振り返ってます。

途中、他のハンディキャップの三輪車軍団(?)とすれ違い、皆が口々に「うわあ、白人のだんなが三輪車乗ってる!何で!?」と大喜び。面白い一枚が撮れました。
。。。名づけて「モプティ三輪車クラブ」

ピーターと私と交代で三輪車を乗り継ぎ、やっとマイガの所に辿りつきました。
「おまたせ。君の新しい三輪車だ。乗り心地はどうかね?」
「ピーターさん、有り難うございます。。。本当に何とお礼を言っていいか。。。」



我々の懸念をよそに、マイガは新しい三輪車を軽々と乗りこなし、本当に嬉しそうでした。
「このご恩は一生忘れません。。。!」
「いや、いいんだ。これからも商売を頑張ってくれ。マイガ、達者でな!」


■ 長年のパラドックスに気付く
一部始終を見せて貰った私にとって、実に貴重な体験だったと思います。
私はそれまで、アフリカの貧困に圧倒されすぎていたのかも。。。行く先々で出会う貧しい人々の数は尽きる事がなく、どうする事も出来ない自分を無力に感じた挙句に、彼らの存在を無視してきました。誰も助けない事で、私なりに彼らに平等に接していたつもりだったのかも知れません。

一方、ピーターがマイガに2万円近くする三輪車を贈ったのは、明らかなえこひいきです。ピーター曰く「私はハンディキャップに負けずに自助努力している彼の姿勢が好きだ。彼は一度だって私に金銭を要求しなかった。だから逆に応援したいと思ったんだ」

ピーターの見解は私も賛成ですが、「誰を助けるかは気分次第」という点では不公平です。しかし、その不公平な贔屓によって、少なくともマイガという一人の男性に奇跡が訪れたのは間違いありません。私がこだわっていた平等性には何の力もありませんでしたが、ピーターの贔屓には一人の人生を変えるほどの力があったのです。

アフリカを去る前日になってやっと自分が陥っていたパラドックスに気付きました。。。

いよいよ明日、パリへ発ちます。

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2011年1月8日

モプティでワゴンRお別れ

いよいよ出発の朝、「良かったら貴方のテントをCampement Baobabに寄付してくれないか」という話になったので、テントを贈呈することにしました。メッシュテントは西アフリカでは快適だし、何よりマラリア対策に最も効果的です。

ロシアでミーハ達に貸し出し、西アフリカでも屋上テラス泊で重宝してきた想い出のテント。ポールが少し折れ曲がって、中は砂でジャリジャリだったけど、ノンボリに残したほうがきっと役に立つでしょう。(高価なテントにしなくて正解でした)

再び断崖を登ってドゥルーの宿に戻り、預けてあったワゴンRとフェデ達のバイクを受け取り。ドゥルーでダヴィドと奥さんを乗せて、4人で25km離れたバンディアガラの街に戻りました。皆にお別れを言った後、ピーターの運転で一路モプティ(Mopti)へ戻ります。

来る時は2日がかりであんなに遠いと思っていたのに、朝9時にノンボリを徒歩で出発したら午後4時にはモプティに到着してしまった。。。ビックリです。やっぱり帰り道は勝手が分かっているので全然ラクですね。

■ 航空券予約で偽造パスポート疑惑
途中、セヴァレ(Sévaré)の航空券の代理店に寄って、私のパスポートを提示する必要がありました。モプティ~パリ直行便の航空券(Point Afrique)はイッサが手配してくれたのですが、私の国籍が日本だと言っても「中国人かもしれない」と言われ、信じて貰えなかったらしい。

何で中国人だと問題なの?と聞いたら、「以前、ビジネス目的の中国人達に偽造パスポートで航空券を予約され、後始末が大変だった。日本人なら全然問題ないが、東洋人は念のため必ずパスポートを確かめさせて貰っている」とのこと。

うーん、中国人はいまやアフリカ各地で道路建設をはじめとする開発プロジェクトに携わっており、現地のインフラを急速に向上させている救世主のような存在です。そんな彼らが偽造パスポートで航空券を予約?何のために?わけわからん。。。

■ 最終走行距離は110,864km
いろいろありましたが、これでワゴンRとのドライブは本当に最後です。なんだかんだでモプティのイッサ邸に帰着した時、オドメータは110,864kmを指していました。東京を出発した時は81,520kmだったわけですから、

110,864km - 81,520km = 29,344km 走った計算になります。。。まあ3万キロくらいか。

東京から西アフリカまで最悪の場合は4万キロと見積もっていたのですが、ここモプティまで3万キロ未満だった事を思うと、取り越し苦労だったかなぁ?でも、ここまでしっかり走りきってくれたワゴンRに何と感謝してよいか。

■ 記念にナンバープレートを外す
マリでイッサが車両を登録するにあたり、特に国際ナンバープレートを提出する必要などはないとの事だったので、「よーし、じゃあワゴンRのナンバーは我々のみやげに持ち帰ろう!」とピーターが張り切ってくれました。(日本でも国際ナンバーを返納する義務はありません。詳しくはこちら)

ワゴンRには前後2枚の国際ナンバーがついています。一枚をピーターが、そしてもう一枚を私がキープする事にしました。

「前のと後ろの、どっちがいい?」と聞かれ、私が選んだのはフロントのナンバー。洗車後でおおむね綺麗ですが、よく見るとフロントの方は、虫とか小石とか、いろんなものがぶつかった跡があります。

たった7ヶ月の旅行ですが、私にとってはこの小さな傷跡が旅路を思い出させてくれる気がしました。一方のピーターは「日本の珍しいナンバープレートが手に入った!」とクルマ屋らしくご満悦。

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ワゴンR、今まで本当にありがとう。
悪路に負けず、一度も故障どころかパンクすらしなかった君は、まさに日本の誇りです。
君のナンバーは1枚がヨーロッパに行き、もう一枚は日本に帰るんだよ。
君の事は、この旅行に関わった全ての人々が覚えてくれてる。
大勢の人々が君のことを気にかけてくれたし、イッサもきっと君を大切に扱ってくれる。
モプティの人々は、小さくて可愛らしい君を、羨望のまなざしで見てる。
どうか、末永く、この地で愛されてください。


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2011年1月7日

フェデ&クリス合流

ノンボリに居る間、携帯SMSで連絡を取っていたフェデ&クリスの2人が近くに来ている事が分かり、「せっかくだから、ノンボリで合流しませんか?」とお誘いしました。ああ、こんな僻地でも使える携帯電話って便利。

若い2人はバイクでバンディアガラ~ドゥルーへ一気走り。我々は予めドゥルーに使いの少年をよこし、2人は翌日少年達と一緒に例の断崖を降りてはるばるノンボリまで来てくれました。「ここまで徒歩で来るのは大変だったけど、あの崖からの眺めが素晴らしかった!来て良かった!」と大喜びの2人。こちらもお誘いした甲斐あって嬉しい。(^_^)

それからは「フェデ達+我々」のガイジン4人組と、ガイドを努めてくれたダヴィドと地元のコルカ青年の総勢6人で、あちこちトレッキングをしてまわりました。

■ ノンボリの見所を探検
まずは今いるノンボリの探検です。この村は、それ自体が見所といっても差し支えない景観を誇っています。ノンボリの最高所には、泥で作られた穀物倉庫群があります(写真)。

その一方で崖の中腹に目をやると、無数の小さな建築物が見えるのですが、これはテレム族(Tellem)と呼ばれるドゴン以前の民族が残した遺跡です。とても人間がよじのぼってアクセスできるとは思えない場所にあり、テレム族がどうやってあれらの建築物を残したのかは未だに大きな謎とされています。

その他にもノンボリには小さな博物館があり、ドゴン族の木彫りの傑作など興味深い展示物を見ることができます。展示方法もモダンでセンス良し。写真撮影OKなのも嬉しいです。入場料は500CFA。

■ 崖上のイジェリ・ドまで登る
ドゴンの村々は、「崖下の村」と「崖上の村」に分かれます。バンディアガラの断崖は標高差が500mもあって行き来するだけで大変なのですが、コルカ青年が「崖上のイジェリ・ド村まで案内するよ」と提案してくれたので、さっそく行ってみることに。

崖登りは予想通り私ひとりでヒーヒー言ってましたが、皆に待ってもらいつつなんとか登頂。ふう。

イジェリ・ド(Idiely-Do)の村では、村内の様々な家や建物を見せてもらいました。特にエキゾチックなのは、トンガリ屋根の穀物貯蔵庫です。家みたいに見えますが、住居ではありません(住居は石造りの建物のほう)。乾燥させたミレットを、上にある穴から投げ入れ貯蔵してゆきます。

さらに素敵だったのは、村から歩いてすぐの所に断崖の縁まで行ける場所があること。崖の頂上から空を飛んでいるような風景を見ることができます。崖の真下にはイジェリ・ナ(Idiely-Na)の村が一望でき、まるで鳥になったような気分。(イジェリ・ナは「下のイジェリ」、イジェリ・ドは「上のイジェリ」という意味らしい)

■ ティレリ往復18kmトレッキング
ピーターを始めとするヨーロッパ勢はほんと元気。「大丈夫、道はずっとフラットだから楽勝だよ!」と言われて9km離れたティレリ(Tireli)の村までトレッキングに行くことになりました(往復18km)。そんなに歩いて大丈夫なのか運動不足の私。(((゚゚Д゚゚)))

ノンボリ出発後、イジェリ・ド、そしてコンボカニといった村々を経てティレリへ。朝8時に出発したので午前中はだいぶ涼しく過ごしやすかったです。

道中、学校があれば必ず見学させて貰っていました。特にコンボカニの学校建築が非常に良い出来だったので、ピーターは後学のため関係者にいろいろ質問して回ったり、写真を撮ったり。

一方、ティレリの学校は出来たばかりだというのに、既に床がひび割れてボコボコになり窓枠が壊れたりしていました。「質の悪い材料を使うと建物が長持ちしないんだ」とピーター。ノンボリに校舎を新設する際には、ぜひこういった考察がフィードバックされると良いですね。

■ ノンボリに不幸の知らせ
なんとか無事に18km歩き通してノンボリに帰ってきた頃にはもう日没でした。

カンプマン(宿)に戻ってみると、主人のダウダが慌てた様子で駆け寄ってきました。

「ピーター、戻って良かった。実は今日の昼過ぎ、モプティのイッサから私あてに電話があって。。。オランダの父上がお亡くなりになったと。。。」

実はトレッキング中は運悪く、ピーターの携帯も私の携帯も繋がらない状態でした。そこで、オランダの親族がモプティのイッサに電話をかけて急を知らせ、イッサがノンボリに電話をかけるという壮大な伝言リレーになったらしい。

「。。。覚悟はしていたが、まさかこんなにも早く父が。。。」

危篤の父上を見舞うため、僅か3日後にモプティ~パリ直行便の飛行機を予約していた矢先の出来事です。ピーターは黙ってノンボリの星空を見つめていました。。。

夜、主人のダウダを初めとする宿の関係者が「お悔やみ申し上げたい」とやってきて、ピーターを始めとする私達全員にドゴンの手作りの品々を贈ってくれました。そこまでする必要は全くないのに、きっとそうせずにはいられなかったのでしょう。ドゴンの人々は、なんだかとても心が暖かい。

「私は一週間後の葬儀に間に合うようオランダに戻る。君もどうせならオランダで少しゆっくりして、アムステルダムから日本に帰ったらいいだろう。」

再びオランダへ。。。フローニゲンで世話になったハンスの顔が浮かびます。
これも何かの縁なのでしょうか。


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2011年1月5日

崖下ノンボリの学校

翌朝、トレッキングに必要な物だけをバックパックに入れ、徒歩でドゥルー(Dourou)を出発。と言っても、ノンボリ(Nombori)まで目に見える道があるわけではなく、かすかな踏み跡を辿るような感じ。うーん、これは地元ガイドの案内無しでは絶対に迷うなー。

しばらく進むとやがて平原が突然終わり、断崖の裂け目にあたる急な下り坂が現れます。
ちょ!すごい傾斜なんですけど!いきなりこんな所降りるの?ていうか登る時どうすんの?死ぬかも。。。orz

へっぴり腰で恐る恐る裂け目の急坂を下る私。見るとダヴィドもピーターも涼しい顔ですたすた先へ進んでいます。おーい、待って~(T_T)

するとダヴィド曰く「私達が子供の頃は崖の上にしか学校がありませんでした。だから崖下の子供達は毎日通学のために、この断崖を登り降りしていたのですよ」

こ、子供達が毎日500mの断崖を登り降り!?ドゴンの生活ってどんだけアドベンチャー?
などと面食らっていたところ、崖の中腹で突然視界が開けて目の前に断崖と砂漠の雄大なパノラマが!!おおお、これは凄い!

こんな絶景を拝めたというだけでも、徒歩で来た甲斐があったというものです。

「ここからノンボリの村がよく見えますよ」とダヴィドが言うんだけど、どこだろう?

良く見たら、向かい側の断崖の手前にネギ畑が見え、その隣の斜面に集落がありました。あれがノンボリか!もうひと頑張りだ!

やがて崖を下りきって木々に囲まれた豊かな平野を横切ると、人々が青々としたネギ畑を熱心に手入れしているのが見えてきました。所々に大きなバオバブの木が立っていて素敵。そして外人がやってきたと見るや、大勢の子供達が寄ってきて手を繋いできます。

あっという間に子供達の手で両手がいっぱいになったところで。。。
なんだろう、
なんか懐かしい感じがする。

そういえば昔もドゴンの子供達ってこんな感じだったっけ。無邪気に寄ってきて、黙って手を繋いで、どこまでも一緒に歩いて。
どうして7年も経ってるのに、しかも全然違う村なのに、何も変わってないんだろう。

あれからサハラ砂漠が舗装され、バマコへの道も整備され、田舎の街でもATMが使えるようになって、西アフリカは確実に近代化しているのに。。。
まるでドゴンの村だけ、永遠に時が止まっているみたいです。


■ ノンボリ新規学校建設プロジェクト
ピーターは到着するや、そのままダヴィドの案内でノンボリの学校に直行。現在ノンボリにはひとつ学校がありますが、小・中学校を兼ねているため非常に手狭です。そこでオランダの支援団体が募金を募り、ノンボリに新しい学校を増設するプロジェクトがスタートしました。今回、ピーターはその仲介役を担っています。



「私はオランダの子供達から、ノンボリの子供達への手紙を預かってきているんだ。まず、それを配らないとね。それから、ここの生徒の顔写真も撮影する事になってる。手伝ってくれるね?」
そう言ってピーターは、教室の子供達を順番に呼んで、オランダからの手紙を一枚ずつ手渡してゆきました。私は撮影班としてスタンバイ。どの子も、初めてのポートレート撮影に、はにかんだ笑顔を見せて可愛らしかったです。



それから現地の校長や教師陣と共に、新しい学校の建設予定地とされる土地を下見。
「えーと、新学校の予定地はここだったと思うんですが」「いや、あっちだったかな?」などと、校長先生含め 非常にアバウトな感じでナイス。うん、この際どこでもいいんじゃないかな。
何しろノンボリときたら、どこを見ても迫力ある断崖がそびえていて絶景ですから。



今回の訪問で一番重要だったのは、ピーターが携えてきたオランダ側からの質問書に対して、ノンボリの学校関係者から回答を貰うことでした。ノンボリ側の窓口は誰なのか?最低月一回はメールで連絡をとれる体制があるか?建設に必要な石材の準備にどの位時間がかかるか?施工開始後の進捗管理は誰が行う事になっているか?完成後の校舎のメンテナンスはどのように計画されているか?

どれも先進国だったら当たり前の内容ですが、電気も水道もインターネットもないノンボリでは難問です。学校建設に関わる10余名が会議室に集い、ああでもないこうでもないと頭を抱えてしまいました。そうなると見越していたピーターは、あれこれ助け舟を出しつつ、2時間くらいかけてなんとか回答をまとめる事に成功。お疲れ様です。



※追記:それにしても、ノンボリの人々にとってはメールのやりとりだけでも大変だと知ってちょっと衝撃でした。最寄りのネットカフェはバンディアガラの街にしか無いからです。ノンボリから徒歩で崖上のドゥルーへ登り、ドゥルーで誰かの車に乗せて貰って20km離れたバンディアガラへ行くのは往復2日がかりの大仕事。うひー。
そんな辺境の地ノンボリでも、携帯電話だけは繋がるというのが不思議。。。



■ ノンボリおすすめ宿情報
ノンボリには3~4箇所のカンプマン(宿)がありますが、中でもCampement Baobabはイチオシです!

斜面のかなり上のほうに建っていて、そこまで登るのが大変なのですが、その分見晴らしはドゴン屈指のベストビューで、ピーターも絶賛。背後にバンディアガラの断崖、そして正面には地平線まで続く砂漠を眺めることができます。
最初は付近の村のカンプマンを泊まり歩く予定でしたが、「よその村に行っても、これ以上眺めの良い宿はないだろう」という結論になり、ドゴン滞在中はずっとCampement Baobabを拠点にしていました。

宿泊は一人2000CFA/泊で、人数に応じた食事を注文できるほか、ミネラルウォーター等の販売もしています。オーナーのダウダ氏は非常に誠実な男性で村人の信頼も厚い人物。イッサの友達でもあります。ノンボリを訪問する際、ガイドか村人に「Campement Baobabに行きたい」と言えば案内して貰えます。


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2011年1月4日

ドゴンの村へのまとめ

見所の多いマリですが、中でも特に有名なのはバンディアガラの断崖(世界遺産)に沿って点在するドゴン族の集落です。一般にはドゴンの国 (Pays Dogon)と呼ばれる事が多いですが、地図にドゴンという地名があるわけではありません。

「オランダの支援でドゴンの村ノンボリ学校を作るプロジェクトがあるんだよ。今回、私は現地での調査交渉を任されているんだ。イッサ、売ったばかりの所すまんが、もうしばらくワゴンRを使わせてもらうよ」

とピーター、昨日イッサのものになったばかりのワゴンRのエンジンをかけ、いざバンディアガラ方面へ出発!快く送り出してくれたイッサに感謝しつつも、私の頭は早くも心配事でいっぱいに。
ねえねえピーター、道は大丈夫なの?ノンボリって全然舗装されてない所でしょう?
「そうだな、行ける所まで行って、駄目になったら徒歩だな」
ま、またか!! Σ(゚д゚lll)ガーン

モプティから70km離れたバンディアガラの街で、ノンボリ側の窓口だったダヴィドという教師と打ち合わせ。ダヴィドはノンボリの近くのドゥルー村出身のドゴンの民です。今回はガイドとして我々をノンボリまで案内してくれる事になりました。

「ダヴィド、このクルマでどこまで行けると思う?」
「ここからずっと悪路ですが、ドゥルーまでなら行けます。そこからノンボリは徒歩になります。」
悪路??悪路ってどんな??。。。と超ビビりつつ臨んだドゥルーまで25kmの未舗装路。



なっはぁんだぁ~♪ こぉんなの楽っ勝じゃ~ん♪
(などと余裕かましていられたのは、たまたまグイナ滝の後だったから。。。)

ドゥルーまでの道中は、所々に小ネギ畑が広がっていて青々としていました。周囲には立派な石垣が巡らされており、手入れが行き届いています。人々の素朴な暮らしが自然と調和していて、なんだかとても美しい。

途中の村の道端で、女性達がネギを丸めてネギボールを作っていました。料理の味付けに使うらしい。

ドゴン周辺は安定して水を供給できる川などが無いため、ネギ畑も水がある季節に限定されるようです。

村人の写真を撮る時にお金が必要な事もあります。今回はダヴィドが交渉してくれました。


ドゥルー(Dourou)の宿Campement Teriya到着。
ドゴンの主要な村には必ずカンプマン(campement)と呼ばれる観光客向けの宿があります。頼めば涼しい屋上で、蚊帳つきで寝させて貰えます。

宿泊料は、どのカンプマンでも一人一泊2000CFA前後。食事も注文できるので何も困りません。



ただ、ドゴンの村には水道や電気の設備が一切ないので、シャワーを浴びたりネットを使ったりといった贅沢は出来ません。

水は全て、毎朝女性達が近隣の井戸から汲んできます。頭の上に大きなバケツを載せて井戸と家の間を何往復もする重労働です。

夜は真っ暗で、満天の星が見事!



ダヴィドはドゥルー出身だったので、村の中を案内してくれただけでなく、家族にも会わせてくれました。(写真)

ドゴンの村では、長老にコラの実を渡したり、村人と長い挨拶を交わしたり、いろいろドゴン流のしきたりがあります。そういう意味でも、ガイドが一緒にいるほうが気兼ねなく行動できて安心だったりします。



。。。というわけで、モプティからバンディアガラを経てドゥルーまで一気にドライブして来ることができました。でも、ワゴンRはドゥルーの宿に預けて、明日からは徒歩で崖下のノンボリを目指すことになります。

ピーター、運転お疲れ様!



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